- 初めてのアフリカ体験記 - 岐部 俊郎
プロローグ:エチオピアへの同行が決まった日
2013年の夏(エチオピアへ行く約半年前)、中村典史教授から、朝、突然 「今年度の日本口唇口蓋裂協会が行っているエチオピア連邦民主共和国での医療活動は、西原先生、松永先生と岐部先生の3人で行ってきて下さい」と依頼があった。
この展開は以前にもあったので(2年前のインドネシア体験記参照)、僕は今回の展開にもすぐに順応できた。
「医療活動は2014年の2月か・・・。たしか、3人目の子供が産まれてくる時期に近い・・・。」と、思いつつ、その日の夜、妻に相談したところ、意外にも「無事に戻ってくるのであれば、アフリカに行ってきていいよ。」と、即答で答えてくれた。
前回のインドネシアに引き続き、今回もせっかく頂いたチャンスを無駄にしないように頑張りたいと心に誓った。
Mission 1st day
今回のエチオピアまでの旅程は、鹿児島空港から中部国際空港へ行き、バンコクを経由してエチオピアのアディスアベバへ向かう予定となっていた。バンコクを出発して約10時間後、エチオピアのアディスアベバに到着した。エチオピアは早朝のようで、当たりは薄暗い様子だった。僕にとっては、初めてのアフリカ。草原のようなにおいのする空気と、我々以外にアジア人を見かけないことから、ここは日本ではないことを強く認識させられた。
預けていた荷物を全員で手分けをして受け取り、税関を通過するという難関が我々に待ち受けていた。荷物の受け取りでは、幸いにも荷物は全部無事に到着していたが、僕のトランクは開けられていて、中身をチェックされていた。僕の真っ白なトランクには娘たち(4歳と2歳)が派手に落書きをしていたので、恐らく怪しい荷物として検査官の目についたのではないかと思った。
税関で西原先生が事前に用意した医療機器の記載された書類のおかげで、去年はかなり長時間かかった税関の審査が、今回は10分程度で通過することができた。空港から、現地コーディネーターのDr.ラダーが手配してくれた車で、宿舎へと向かった。エチオピアの首都であるアディスアベバの町並みは、思った以上に都会的ではあったが、お世辞にもきれいと言うような感じではなかった。
Mission 2nd day
今日は午前中にアディスアベバ大学歯学部で、西原先生が「日本の紹介と口唇口蓋裂の治療の概要と骨移植」について、松永先生が「再建と口唇形成」について、そして僕が「エナメル上皮腫の基礎研究」について講義を行い、午後、今回医療活動を行うブタジラ地区の病院へ移動する予定となっていた。そこで、ハプニングがあった。西原先生と松永先生は講義のために、ちゃんとシャツとネクタイを準備していたが、僕はすっかり忘れていてフォーマルな服を何一つ持ってきてなかった。僕が今回持ってきた衣類で、唯一正式な服装といえば「サッカー日本代表の本田のユニフォーム」だけだった。そこで、「サッカーユニフォームを着て講義してはどうか」と思い、講義中に着替えることを思いついた。「これも立派な日本を代表する正装だ!」と、自分に言い聞かせて、講義に臨んだところ、エチオピア人学生にとても好評であった。
講義が無事に終わり、僕らが歯学部から表の道路へ出ると、外で少年たちが道路でサッカーをしていた。「これは、アフリカの子供たちとサッカーができるチャンスだ」とそう思うや否や、僕はすぐさま本田のユニフォーム姿になり、 「Join me OK ??」と言いながら少年たちのサッカーに混じった。子供たちは僕をすんなり受け入れてくれ、僕を『HONDA』と呼んでくれた。 英語で本田と呼ばれる僕は、自分が本当に本田になったような気がした。本物の本田も、海外でプレーしているので、チームメイトからはこんな風に呼ばれているのかなと思うと、不思議な気持ちであった。ここは標高2400m、空気が薄い国。僕の息が上がるのは早かった。アフリカ・エチオピアで、サッカー日本代表のニセ本田になったひとときであった。「Good bye, Honda!!」と言いながら子供たちは僕たちを見送ってくれた。
そこから今回の医療活動の拠点となるブタジラへクルマで移動をした。2時間ほどクルマに揺られた後、病院へ到着し、すぐに病院の敷地内にあるゲストハウスへと案内された。今回のミッションのコーディネイターの先生達と初めて会い、夕食を供にした。「明日からいよいよ医療活動が始まる。少しでも口唇裂を持つ子供たちとその家族に笑顔を与えるような手助けができるよう頑張りたい」と思った。
Mission 3rd day
今日の予定は手術機材のセッティングと、口唇形成手術を待っている患者さんたちの口唇の状態はもちろん、全身状態を現地の小児科医と把握し、患者さんが手術に耐えられる状態であるかどうかを検討することとなっていた。まず、オペ室の鍵を開けてもらい、僕らが部屋に入ったところ、ここでのオペが初めての松永先生と僕は、何もない状況にあっけにとられてしまった。昨年ここで医療活動の経験のある西原先生は、当たり前のような感じで、「ほら、まずは掃除からだ」と言いながら、やるべきことを指示してくれた。全員で手分けをして手術室をきれいに掃除し、日本から持ってきた薬品やオペ機材を準備をすること2時間、一通りのオペ室へと変貌を遂げた。ふと外が騒がしくなっているのに気がつき外を覗くと、僕たちの診察を待っている患者さんたちでいっぱいであった。松永先生、高橋先生と僕はオペ室を出て初めて出会う患者さんの様子を見に行った。僕たちは笑顔で挨拶しようと思ったが、その気持ちとは裏腹に、彼らは言葉では表現しがたい表情で僕らのことを見つめていた。僕らに対する、不安、猜疑心、期待・・・いろんな感情が混在したような眼差しのように感じ取られた。その中には、口唇裂が未治療の状態のままの中学生くらいの子もいた。「今日ここにいる子供たちだけでも、手術を受けて全員幸せになってほしい」と心から思った。しかしながら、全身状態が不良のため、今回手術ができない患者さんも中にはいた。期待してここまできたのに、手術してもらえない子供やその家族はどんな思いであろうか。今回手術できなかった子供たちの顔を僕は忘れることができない。
2時間半ほどで術前診察を終え、僕らはゲストハウスに戻ってその資料をもとにオペの日程を組み、症例検討を行った。西原先生は今回我々に同行してくれているアディスアベバ大学の若手医師Dr. Surafel(25歳)に患者データをエクセルに打ち込んでもらい、Dr. Surafelが作成したデータをもとにiPadを使って、僕が患者の顔写真入りのカルテと手術予定表を作成した。普段から、iPadなどでデータベースを作成している特技が、意外にもこういう場所で役に立ってうれしかった。明日は手術日初日。気合いを入れて頑張ろうと思った。
Mission 4th day
手術一日目はタフな一日だった。麻酔器械は一つなので、同時並行の手術ができない。一日に4件連続での手術となる。麻酔の導入、挿管、手術、覚醒、次の麻酔の導入と・・・。手術時間もいつも以上にスピーディーさが要求される。ましてや手術中の頻回の停電など、いろいろな悪条件がそろっているなかで、僕らは手術を行った。停電の時でも慣れている西原先生は、持参してきたヘッドライトを付けて、慌てることなく手術を行っていた。麻酔医の高橋先生も環境に柔軟に対応し、終始安全な麻酔をかけていた。最初は慌てていた僕も、そんな周りの先生達の姿を見て、不意のトラブルが起きても慌てないで手術を継続できるようになっていった。タフなスケジュールで手術が進行していく中、疲労から僕はだんだん余裕がなくなっていたが、西原先生だけは常に現地の看護師さんにジョークを言ったりして場を和ませていた。加えて、現地医師Dr. Surafelにも技術指導をしていた。今回はミッションチームのリーダーとして西原先生が任されていたが、まさにリーダーとしての役割をこなしているように思えた。今日のすべての手術が終わったのは22時30分。僕らは、疲れた体を引きずって、ゲストハウスに戻った。
Mission 5th day
手術二日目。今日は手術が始まる前に、松永先生が昨日手術をした患者さんの回診をして手術室にやってきた。松永先生が術後の患者さんの写真を撮ってきていた。写真の中のきれいになった子供の顔を見る親の表情がとても幸せそうで、僕らの苦労が報われる気がした。「どうか、どうか感染等起こらず、きれいに治るように」と、僕は強く願った。
手術は今日も順調に進行し、無事終了した。Dr.Surafelも西原先生のアシストに積極的についたり、見学したりと、意欲的に西原先生からいろいろなことを学んでいる様子だった。そして夕食後、Dr Surafelが今回の研修が終わったら今度は自分が日本に行ってみたいと言い出した。すると西原先生は「僕のガイド代は高いぞ?」と冗談を言ったところ、「僕の今回のガイド代も高いですよ」とDr. Surafelも冗談で切り返すほど、仲良くなっていた。たとえ外国人であっても物怖じしない西原先生の様子は鹿児島大学の医局での様子と全く変わらないので僕は笑ってしまった。
Mission 6th day
手術三日目。今日も割と長い停電があったが、松永先生はそれに動じず、冷静に手術を継続していた。もちろん高橋先生も、麻酔機の電源が切れてモニターも全く機能しない状態でも、冷静に麻酔管理をしていた。西原先生は連続の手術で疲れていて仮眠をとっていたが、停電中でも全く起きる気配はなかった(笑)。いつ停電が起こり暗くなっても患者さんのデータや写真が見られるように、僕はオペの合間にパソコンでその都度撮影した写真を取り込んで整理していた。
Mission 7th day
手術最終日。昨夜、高橋先生と僕はアムハラ語の勉強をし、「Dekemgn(疲れた)」という言葉を知った。そこで西原先生に、朝手術室に着いたとき、スタッフへの挨拶で「Dekemgn」と言ってもらうことにした。手術室に着くやいなや、西原先生がニヤニヤしながら「Dekemgn, Dekemgn」とつぶやくと周りは大爆笑。手術室が笑で和み、温かい良い雰囲気の中で今日のミッションがスタートした。
手術はすべてトラブルなく無事終了した。最終手術が終わると、スタッフ全員から拍手が沸き起こった。今回のミッションが無事終了したことへのねぎらいであったように感じた。
その夜は、スペシャルエチオピアディナーだったが、なんと長時間停電発生。ろうそくの光で病院最後の夜を過ごした。西原先生は「Dekemgn」が気に入ったようで、ことあるごとにつぶやいてはエチオピア人たちの笑いを誘っていた。
こんなにも仲良くなったここのスタッフと明日お別れになるのが寂しいと感じた。今回のメンバー4人は医療面だけでなく周りのスタッフとのコミュニケーションにおいても抜群のチームワークだったと思った。僕もその一員としていられたことを誇りに思えた。
Mission 8th day
エチオピア最終日。早朝、ブタジラにある湖がきれいだということで、我々はその湖に向かうこととなった。そこで我々を待ち受けていた景色はまるでテレビの「世界不思議発見!」にでてくるような壮大さで、圧倒された。噴火口の用な形状をしている湖で、僕らはその縁から中を覗き込むような感じで湖を眺めた。しばらくすると、近所に住んでいると思われる現地の子供たちが近寄ってきた。
「子供たちにお菓子の土産を用意しておくといいよ」と、事前に西原先生に聞いていたので、そのお土産を渡すと、その中の一人の子が近くにある自分の家に招待してくれた。我々はその子の家を見学させてもらえることになった。松永先生は子供の一人と仲良くなり、手をつないで歩いていた。
病院に戻って来た僕らは、昨日の手術をした患者さんを全員で回診した。患者さんの中のお父さんの一人が、西原先生に一生懸命現地の言葉で何かを伝えようとしていた。Dr. Surafelに通訳してもらうと、「西原先生をはじめとする日本からの医療チームにとても感謝しています。私と私の子供は幸せです。」とのことだった。英語ができないけれど、なんとかして感謝と喜びの気持ちを伝えようとしている様子に、今回の僕らの医療活動が報われたような気がして、心が満たされていくのを感じた。その後、病院スタッフと別れの挨拶をし、僕らは日本に帰るために再びエチオピアの首都アディスアベバへ向けて車で移動した。
いよいよエチオピアに別れを告げることになった。日本に帰る間際になって、日本が恋しいという気持ちがある一方で、エチオピアでもっと医療活動を続けたいという気持ちも心の中にあった。少しでも多くの患者さんに貢献できるよう、機会があればまたエチオピアを訪れたいと思った。
最後に、日本口唇口蓋裂協会、エチオピア現地のスタッフ、今回の医療活動の機会をくださった中村教授、私たちの不在の間のフォローをしてくださった医局の方々に、日本での日常では得ることのできない貴重な経験をさせていただいたことを深く感謝しています。そして、僕を快く送り出してくれた家族に「ありがとう」を言いたいです。