- 口唇口蓋裂医療援助 in エチオピアに参加して - 渕上 貴央
2013年1月、エチオピアでの口唇口蓋裂海外医療援助に同行した。日本口唇口蓋裂協会の活動の一貫として、鹿児島大学口腔顎顔面外科としては一昨年度に引き続いて2回目の参加であり、参加者は中村教授、西原講師、そして、3人目に入局1年目の僕が同行することになった。出身の長崎大学歯学部時代から「海外で医療活動がしたい!」と希望し、口唇裂の海外活動を積極的に行っている鹿児島大学大学院口腔顎顔面外科学分野の大学院を進路として選んだ僕の希望が、いきなりアフリカ行きというワイルドな形で叶った訳である。もちろん、過去の先輩先生方のような代役が務まるわけはなかったのだが。それにしても、メスを持つ姿も未だ様にならない僕にこのような機会を与えてもらえるとは思っていなかっただけに、誘っていただいた中村教授、西原講師には感謝したい。
今回の紀行文のタイトルは、何やら悪口のようなことを書いたが、決して今回のミッションに対する罵詈雑言ではない。エチオピア語で「コンジョナシ」とは「あなたは美しい」という言葉であり、「バッカ」とは「とても、十分に」という意味を指す。従って、「根性なし、バカ(コンジョナシ、バッカ)」とは「あなたはとても美しいよ」という意味で、口唇裂の手術が終わって綺麗に治った患者さんにかける言葉も「コンジョナシ、バッカ」だった。なお、僕が現地の女性に対してこの言葉を使ったことはなかったことは申し添えておく。とはいえ、中東に近いため中東系の血もまじっているエチオピア人女性には美人が多かった。
いざ、エチオピアへ
エチオピアという国について馴染みのない日本人は多いと思うので、少しだけ説明を加えておく。正式名称は「エチオピア連邦民主共和国」。アフリカの東端に位置している。国家面積は日本の約三倍。人口は8,300万人で、およそ80の民族により構成されている。
エチオピアまではもちろん飛行機で向かうのだが、日本からは直行便がないため、乗り継いで行かなくてはならない。今回は、鹿児島〜名古屋〜バンコク(タイ)〜アジスアベバ(エチオピア)という経由で向かった。1月9日のAM7:45鹿児島発の飛行機で出発し、エチオピアに到着したのが1月10日 AM12:30 (日本時間)だから、だいたい30時間ほどの行程であった。特に、バンコクでの乗り継ぎがスムーズではなく、エチオピア行きの飛行機が出るまで10時間程度あったことは僕達の活力を多大に消耗させた。アジスアベバの空港に到着した時にはみんなクタクタになっていた。空港で、麻酔担当として参加する高橋先生(千葉県がんセンター)、一杉先生(日本大学歯学部病院)と合流し、医療機材を一緒にして税関を通ることとした。なかなか機材の国内持ち込みの許可が降りず、この日を含めて数日間、税関の問題で我々は一喜一憂させられた。アジスアベバの標高は2,400mと高く、高橋先生が日本から持ってきたお菓子の袋がパンパンになっているのをみてみんな珍しがっていた。
アジスアベバ大学での講演
アジスアベバ2日目にはアジスアベバ大学歯学部において中村教授が講演をする予定があったため、僕もそこに同行した。事前に、中村教授に「渕上君も経験のために何か喋ろうね」と言われており、今年の口腔外科学会で喋った内容の英語版を、中村教授の講演の後に10分程度話すことにしていた。
アジスアベバ大学歯学部の構内はさほど大きくはなく、その中に診療室も設けられていた。どの場所もとてもきれいにされていたので居心地は非常に良かった。ひと通り学内を案内されると、講演の時間が近づいてきたため講義室に案内された。講義室も広くはなく、ギュウギュウに詰めて40人程度入るほどの小さな部屋だった。当日は祭日であったため学生はおらず、聴衆のほとんどは歯学部病院と口唇口蓋裂センターの歯科医師であり、医師、言語聴覚士なども混ざっていた。
中村教授の講演は、口唇口蓋裂の治療のこと、日本のこと、鹿児島のこと、など内容が豊富で、非常に流暢な英語で話していたのはさすがであった。中村教授の講演が終わると、みな忙しいようでソワソワした雰囲気になったが、「うちの若い先生からも講演があるので聞いて欲しい」と中村教授がごり押し気味に僕を紹介し、壇上に上がることになった.なんとか話を聞いてもらおうと、挨拶の際に中村教授の事を「He is very kind but sometimes strict and terrible like a lion. (普段は優しいが、時としてライオンのように怖く、厳しい)」と話したところ、予想外に受けた。エチオピア王家の象徴であるライオンを取り上げた表現が良かったらしい。無事に講演を終え、アジスアベバ大学での僕の仕事は終えた。
医療活動開始!ブタジラへ
今回のボランティア医療活動は、首都のアジスアベバから西に離れた地方都市ブタジラで行われることになっていた。ブタジラまでは車でおよそ3時間の距離だ。アジスアベバは人口300万人の大都市だが、都市を出るとそこいら中に大草原が広がっていた。草原といってもこの時期は乾季にあたるため、緑の草原と言うよりも若干茶色がかってはいた。ブタジラの標高は1600m。アジスアベバとは標高が800mも差がある。標高が下がるにつれ木々が増して景色も変わってくるのが興味深かった。
道中、ティアという地名に世界遺産があるということで、案内役のバーバリッチさんに導かれ立ち寄ることになった。まさかの世界遺産訪問のチャンスに、一同のテンションは上々だ。しかし、行ってみるとそこは草原に石でできたお墓が並んでいる規模の小さいものだった。キリスト教がアフリカに伝来する軌跡を知る上で重要な資料であるらしい。僕にとっては好みの景色であるが、スケールの大きな世界遺産を期待したメンバーにとってはいささか不満であったようであった。
ブタジラに到着すると、そこはのどかな町であった。人民の多くは、牛やロバ、山羊などの家畜を飼っている農民で、動物がユッタリと公道を占領して歩いている。人々もロバにのってゆっくり移動しているのを見るとのどかな気分になった。町の広さは一見して分からないが、通りを歩く人はとても多かった。エチオピアの人はやはり目が良いのか、遠くからでも車の中にいる我々を見つけ、なにやらジェスチャーを投げかけて大きな声で呼びかけてくる。が、いずれもアムハラ語だったためその意味は分からないのが残念だった。
Grarbet病院到着
我々の活動するGrarbet病院はブタジラの町の郊外にあった。敷地は広く、きれいに管理されている病院であった。到着すると、事務長のテシェーマ氏が出迎えてくれた。 まず、病院内を見て回って、手術室や全身麻酔機をチェックした。決して大きな病院ではないが、地方病院としては結構設備が整っていた。我々が手術用に持ち込んだ医療機材は、しばらく空港の税関で足止めになり、ブタジラに到着した3日目にようやく届いた。それまでは、現地にある薬や機械をいろいろと工夫して使わねばならず、安定した環境でないところでも、経験や知識を駆使して医療を行おうとしているメンバーの姿をみて、まさに僻地での医療ボランティアの腕の見せ所だと思った。
宿舎は病院内のゲストハウスが充てがわれた。部屋の中は広く、ベッドも綺麗で、温水シャワー、トイレ完備だったが、夜食事を終えて部屋に戻るとナナフシのような虫やコオロギがいたのには驚いた。どうも、扉の下に外に通じる隙間が開いていて、そこから入って来らしい。そこで、西原先生に分けてもらった蚊取り線香をガンガンに焚いたら、逆に自分が窒息しそうになったため、余計に閉口して初日の夜が過ぎた。
さて、病院敷地内には小さな動物園があり、サル、ゾウガメ、ハイエナがいた。が、オリに入っているサルと似たサルが檻の外にいたのには失笑した。ところが、この外のサルたちが明け方近くになるとゲストハウスの屋根上を駆けまわる。そのドタバタ音で早く目が覚めてしまうため(もちろん時差ボケもあるが)、日中どこかで寝ているであろうサルを恨めしく思わずにいられなかった。
手術開始
ブタジラに到着した翌日は手術前の診察日であった。患者は30人ほど待っていたが、患者の健康状態をチェックして、安全に全身麻酔下で手術のできる患者を絞っていった。患者の中には口唇口蓋裂患者だけではなく、外傷や炎症のような患者も混ざっていた。最終的に17人の患者をリストアップし、翌日から4日間かけて手術を行うと決まった。手術室は8畳ほどの広さで、そこには全身麻酔用の麻酔器が1台しかなく、縦一列で多くの手術をすることを余儀なくされた。大体、1日4〜5件の計算である。しかし、患者は遠方から来ている患者も多く、また、このチャンスを逃せば、いつ手術を受けられるのか分からないという。一人でも多くの患者の手術をするという方針に我々、現地の医療スタッフ全員が合意し、準備に当たった。
手術1日目は4件。縦一列の予定なので、大幅な遅延は許されない。手術に臨む中村教授、西原先生は海外での医療活動があるだけあって、初めのうちは現地の医療設備やナースなど慣れない環境に戸惑いをみせたものの、次第に要領をつかんで順調に手術が行われていった。手術と手術の間もなるべく早く患者さんの交換ができるように、麻酔科の先生が手術室の外でベンチに座った状態で患者さんから点滴を取り、待機させた。2日目以降も同様のペースで手術が進められたが、ひとつ問題があった。病院の電力が頻繁に落ちるのである。つまり停電を起こすわけだが、停電の状態では全身麻機器、無影燈、電気メスや吸引器など必須の機材が使えない。なんとか非常電源を引いてもらって手術を続行するものの、それでもやはり1時間に1回くらいは数秒程度の停電を起こした。頻繁に停電する中での手術はスタッフにとってやはりストレスであったが、すでにその準備をしてきている中村教授と西原先生は、頭のヘッドランプを頼りに手術を進め、ほとんど動じなかったのは流石だと思った。
手術を行った4日間はあっという間だった。毎日、朝から晩まで立て続けに手術して、遅い日には夜10時過ぎまで働いたにもかかわらず、日本から参加した麻酔科の先生も現地のスタッフたちも嫌な顔ひとつせず協力してくれた。なかでも印象的だったのは、ある患者の母親の表情が手術前と後では全く異なっていたことだ。手術前には心配と緊張でこわばっていた母親の表情は、手術を終えた翌日には、母親の表情は明るく、笑顔も垣間見えた。「素晴らしい手術をありがとうございます。人生が変わったように思います。」との言葉をもらった時、僕が直接執刀したわけではないが、非常に嬉しかった。僕も、「Konjonasi(根性なし)、Bakka(バッカ)」で答えた.
無事4日間を終え、中村教授、高橋先生、一杉先生、そして僕の4人は先に帰路につくこととなった。西原先生はというと、もう3日間残って、追加で訪れた3患者の手術と術後診察を行う予定となっていた。アジスアベバへ向かう車に乗り込む僕らを見送る西原講師はものすごく淋しげであった。
本活動に参加して
今回訪れた都市はいずれも標高1600m以上の高地であり、気候はアフリカを感じさせない涼しさであった。虫も比較的少なく、暑いのが苦手な僕には最適な環境であった。ところで、空港で「Welcome Ethioia!」と迎えた動物とは全く出会うことがなかった。食事もおいしく、なかでも、インジェラというエチオピアのパンケーキも僕好みで(他の人は酸っぱいと苦手だったようだが)、比較的ストレスの少ないアフリカ滞在生活を送ることができた。今回の活動を通じて感じたことだが、エチオピア人はとても責任感が強く、また人柄も温和であった。街を歩く人の多くは決して裕福ではないはずだが、どの町にも活気があふれていて、人々のパワーを感じた。逆にこちらが力をもらった気さえする。
学生の時からの希望であった海外支援に参加する機会を得て、自分自身の感慨と興奮は例えようがない。今回の活動でお世話になった方全てに感謝したいと思う。同時に、僕ら日本人歯科医師が海外で協力できることはまだまだあると感じた。いずれは僕自身が戦力としてとして各国を回れるように、自己の研鑽に励みたいと真に思った。