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 インドネシアでの口唇口蓋裂支援活動  中村 典史、緒方 祐子



2009年12月、我々は九州大学病院歯科矯正科の鈴木 陽先生とインドネシアのハラパンキタ小児女子病院を訪問してきました。インドネシアへの支援は、中村が以前同国における本格的な口唇口蓋裂包括的医療の確立に協力したことをきっかけに始まり、その後も定期的に病院を訪問して、口唇口蓋裂の一貫治療が円滑に運営されるよう協力しています。
 今回は、治療した乳児が15歳を迎えるということで、顎発育をほぼ終えた患者さんの口唇口蓋裂治療が順調に行われているかを見届けるために出かけました。今回は、我々のインドネシアにおける口唇口蓋裂医療援助の様子をすこし皆様に紹介したいと思います。

中村 典史 編

まず、最初に我々がインドネシアへ医療支援に出かけるようになった経緯についてお話したいと思います。インドネシアジャカルタ市のハラパンキタ小児産科病院(当時の名前)に駐在したのは1995年で、当時、インドネシアは目覚ましい経済発展を遂げていました。しかし、国民間の経済格差は極めて大きく、医療面においても、裕福な者は最新の医療を受けられるものの、貧しい者は医療保険制度の支持もなく充分な医療を受けられない状況でした。口唇口蓋裂についても、ジャカルタ市などの主要地域では専門医によって手術がなされていましたが、その数は少なく、言語聴覚士や歯科矯正科医などとのチーム医療を本格的に実施する施設はありませんでした。一方、地方や貧しい患者は病院に行けず、一般外科医や研修医によるボランティア手術のチャンス待って治療を受けていましたが、患者は口唇鼻の変形や上顎の劣成長や咬合異常、言語障害に苦しむという現状でした。
 ハラパンキタ小児産科病院は半官半民のインドネシアで最も大きな小児病院の1つで、そこの歯科医と歯科矯正科医が核となってインドネシアに口唇口蓋裂の抱括的医療を確立する目的で1994年に「Program SEHATI(インドネシアの子供の笑顔と健康)」という新たな医療プロジェクトを開設しました。そして、そのパートナーとして私の前任の九州大学第一口腔外科(主任:大石正道教授)との間に医療協力MOUが交わされ、翌年、医局から私が派遣されることになりました。それまで、周りに東南アジアに派遣された医局員もおらず、インドネシアは全く未知の世界でした。派遣の話を聞いて初めて買った「地球の歩き方」でみたインドネシアは、バリ島ののどかな風景とリゾートホテルが紹介され、「ジャカルタ市はもっと都会である」程度の認識をもって、1995年4月にジャカルタ国際空港に降り立ちました。しかし、そこに待ち受けていたのは、溢れんばかりの人と車の波、熱気、油臭い空気が充満し、朝晩コーランがスピーカーから大音量で流れてきました。ハラパンキタ病院も椰子の林の中の2階建て程度と思っていましたが、4階建ての大きな病院で、隣に国立循環器センタ―、国立がんセンタ―など、インドネシアの誇る大きな病院群の中にありました。街の至る所に大きなショッピングモールや外資系のホテルなどの超高層ビルが存在し、赤道直下にこのような文明があろうとは考えてもいませんでした。インドネシアへ出かけた最初の感想は、南アジアに対するあまりの認識不足に恥ずかしい気持ちと不安とが一気にこみ上げてきました。

 私がハラパンキタ病院で行ったのは、口唇裂、口蓋裂手術の他、哺乳指導とホッツ型口蓋床の導入、言語診断・治療の手伝いなどでした。同時に、プログラム SEHATIでは、海外の施設を参考に患者の元に口唇口蓋裂医療者が集まって治療計画を立案するシステムを導入し、診療情報の一元管理、リコールシステム、親の会の設立、母親教室の定期開催、診療手引きの作成などを次々と進めました。当時、プログラム SEHATIは、まだハラパンキタ病院の正式な診療部門ではなく、施行したうえで採算ベースに合うようであれば後にクリニックに格上げされるという形でしたので、プログラムでは、女性週刊誌やTVにその新たな活動内容を宣伝し、口唇口蓋裂関係の全国セミナーなども積極的に開催されました。その結果、徐々に患者数は増加し、特に、出生直後の患者が多く訪れるようになり、そのおかげで、出生直後からの哺乳管理が可能となって、それまで病院内で時々みられた口蓋裂の死亡が減っていったのは嬉しいことでした。私が2年間インドネシアに駐在した後、後輩の笹栗正明先生(現、九州大学病院顎口腔外科口唇口蓋裂診療班の主任)が2年駐在して、計4年間の間に現地スタッフを教育することになりました。また、私が駐在していた期間に、在インドネシア日本大使の渡辺泰造氏にハラパンキタ病院を草の根無償援助の対象として推薦していただくことになり1、000万円が日本政府からプログラム SEHATIに贈られることになりました。プログラムは正式な日本のODA の対象となり、多くの医療機器を揃えることができるとともに、現地スタッフだけで運営できる口唇口蓋裂包括的医療チームが完成しました。現在では、プログラム SEHSTIは正式なクリニックに昇格し、現在では専門の大きな建物を持つまでになり、名実ともに、インドネシアで最も大きな口唇口蓋裂治療施設となっています。  
 現在も私は定期的にインドネシアを訪れ、治療を受けた患者が長期的に形態、機能の両面で良い結果に結び付いたかどうかをfollow upしています。今年は15年ぶりに多くの患者に出会うことができました。赤児だった患者達は、今や中学生となり、私より大きくなった患者への久々の再開は感激一入でした。ハラパンキタ病院のプログラムSEHATIの治療レベルは、形態、言語、発育いずれも日本の主要な口唇口蓋裂施設と同レベルまでに向上していました。また、インドネシアの各地から、口腔外科医、歯科矯正科医が勉強に訪れており、我々が撒いた小さな種がすこしずつ大きくなり、インドネシア各地に同じようなシステムを持つ口唇口蓋裂センタ―ができる日もさほど遠くないと思い感じました。


新築された口唇口蓋裂クリニック

大きくなった患者と15年ぶりの再会

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緒方祐子 編

私は、過去1997年、2005年に現地に行く機会を与えられ、現地の言語聴覚士の先生に言語療法の指導を行ってきました。今回は3回目の訪問となりました。


言語担当のリタ先生と

ハラパンキタ病院の口唇口蓋裂クリニックには、専任の言語聴覚士のリタ先生がおられ、リタ先生は以前日本を訪れて、私の元で口蓋裂言語治療を勉強されました。今回、私は、1週間程度一緒に言語療法を行いながら、ハラパンキタ病院の口蓋裂患者さんの状態を観察しました、今回は、ジャカルタのみではなく、スマトラ島など遠方からも患者さんが来院されていました。また、ジャカルタに1週間滞在し、集中して言語指導を受けておられる方もおられました。プログラムSHATIの言語の情況は、プログラムが開始した以前と比べると、患者さんの鼻咽腔閉鎖機能は概ね良好で、言語の問題が少なくなっている印象でした。しかし、中には、鼻咽腔閉鎖機能が十分でなく、成人まで言語療法を受けずに20才になって来院された方もおられました。また、中には、以前から各地で6回の手術歴があるにもかかわらず言語の障害があるために、ヨーロッパの国の奨学金をうけて手術を受けに出向き、その後の管理をハラパンキタ病院で受けておられる方にも会いました。
 現地の言語聴覚士の先生は、母国語ではなく、英語で書かれた外国の文献を手に取り、勉強をしておられ、教材もインドネシア国内のみではなく、シンガポールやヨーロッパなど国外から入手し努力されているようです。日本で我々は、日本語の教科書で、教材も入手しやすい環境の元で、言語障害を学んでいますので、もっと、我々は世界に目を向けて、世界の口蓋裂の子ども達が同じように言語の問題に苦しまないように支援して行きたいと思いました。


オランダより入手した教材を利用した鼻咽腔閉鎖機能の賦活訓練

さらに今回、口蓋裂は一貫した包括的な治療が重要で、単科のみでは治療が成立しないということと、共通理解の元で治療を進めていくことを痛感しました。お互いの専門知識を生かし、チームアプローチを行うことで、医療従事者と患者さんが手を取りながら、治療を進めて行くことが肝要であると思いました。そのためには、言語聴覚士は、他職種やご家族に患者さんのことばのことを説明する知識が必要で、聴覚判定などの主観的なもののみではなく、客観的なデータを踏まえた多面的な着眼点が必要と思いました。
 日本では当たり前のことが当たり前でないこともあり、日本でこれまでの医療体制を作って下さった先人たちに感謝するとともに、これからも患者さんやご家族とともに、子どもたちの心身の健康を願いながら、言語療法に励みたいと思います。また今後も、ハラパンキタ病院へ出向き、現地の多く先生方と情報を交換しながら、同国の口蓋裂言語治療の発展にお手伝いができればと思っています。


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