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  慙愧に堪えないassistant professor
  - 口唇口蓋裂医療援助 in インドネシア - 
 

                       久米 健一


 「次はおまえの番だ!」
2014年のある日、中村教授から2015年4月にインドネシアで行われる口唇口蓋裂ボランティア手術活動に同行するよう誘いを受けた。当科では年に1〜2回は海外での手術活動を行っているが、口腔癌を専攻している自分に声がかかるとは思ってもみなかった。海外にはハワイなど日本語が比較的通じる所しか行ったことが無いため、英語があまり得意でない自分にとってはコミュニケーションがとれるかなと不安な気持ちが強かった。それから英語のCDを聴く毎日を過ごし、2015年4月23日インドネシアへの出発日を迎えたのである。


いざ、出発!

 今回の日程は
4月23-24日:鹿児島を新幹線で出発し、福岡発、シンガポール経由でインドネシアへ.ジャカルタ、ハラパンキタ小児女性病院で手術指導
4月25-29日:ジャカルタ発、スラウェシ島マカッサルへ移動の後、ソロアコへ.インドネシア大学歯学部と共同で口唇口蓋裂手術、および手術指導
4月30日:スラウェシ島マカッサルに戻り、ハサヌディン大学歯学部で講演
5月1-2日:ジャカルタ発、シンガポール経由で福岡着、その後鹿児島へ戻る計10日間の日程となる。現地の口腔外科医はいるものの、中村教授と10日!も一緒に過ごすのかと暗澹、いや、めったにできない経験に胸を躍らせ、まずは、福岡から8時間のフライトを経て、シンガポール・チャンギ国際空港へ降り立った。トランジットの時間が短く、すぐにインドネシア・ジャカルタへ向かわなければならなかったのは残念だったが、帰りは時間があるようなので、空港内の探索はその時に行うこととした。


インドネシアに到着

3時間弱でインドネシア・スカルノ・ハッタ国際空港へ着き、入国審査の途中で空港職員による“お祈り”が始まった。その間われわれ外国からの訪問者は全くの放置であった。日本では絶対にあり得ない光景にあっけにとられたが、ここはインドネシア、郷に入らば郷に従おう。さて、空港のマネーチェンジャーで、ペラペラの日本円が分厚いルピアへ替わったところで、ハラパンキタ小児病院のDr.シャフルジンとインドネシア大学のDr.ドゥイが我々を迎えてくれた。春の陽気真っただなかの鹿児島と比べると35度のジャカルタはとても熱く、南国へ来たことを改めて認識させられた。ホテルへ向かう道は30分程度だったが、自分が持っていた東南アジアのイメージを覆すのに十分で、もちろん鹿児島よりずっと都会で、自分の故郷の大阪と比較しても遜色なかった。もっとも驚いたのは、インドネシア人の車の運転である。以前から、周りの人には、大阪で運転がスムーズにできれば世界中のどこでも通用しますよと豪語してきたが、2車線の幅に4台の車が切れ目なく並び、少しでも車間距離を開けると、どんどん割り込まれる様子を見たのは衝撃だった。よって前言はここで撤回したい。


インドネシアのトラフィック

 さて、翌日は、このハラパンキタ病院で、中村教授が20年前に赤ちゃんの時に口唇裂手術をした患者さんに外鼻修正術を行う予定となっていた。私は手術のアシストと一部術者としても参加した。手術の後は、ジャカルタ市内を観光し、いよいよ4月26日からのスラウェシ島ソロアコでのインドネシア大学歯学部と共同での口唇口蓋裂手術、および技術指導が始まるのである。スラウェシ島ソロアコでのボランティア手術のスタッフはインドネシア大学口腔外科の教授や同科のスタッフ・レジデント、ハラパンキタ小児病院のDrドゥイ、麻酔下のDr、手術室看護師、そして鹿児島大学病院顎外科の中村教授と私の総勢22人であった。その中には、国際口腔外科学会の研修精度で派遣されたメキシコ人のDr. ガブリエルという女性口腔外科医もいた.オーストラリア、インドネシア、アメリカの3カ国で研修を受けるということであった.インドネシアでは、当初、中村教授が以前勤めたハラパンキタ小児女性病院で研修する予定だったが、急な変更でハラパンキタ病院で研修できなくなったらしい.そこに、ハラパンキタ病院の口唇口蓋裂クリニックの創設に関わった中村教授が日本からやって来たことを知り、「なんと運命的な出会いなの」と大変喜んでいた.その後の、手術でも我々のアシスタントをとても熱心にやってくれた.

 

 ソロアコに向かうには、まずジャカルタからスラウェシ島マカッサルのスルタン・ハサヌディン国際空港へ向かい、そこからソロアコへ移動するのだが、何と10時間のバス移動(バスはメルセデスベンツ社製!)となった。この長距離移動も日本の長距離バスと同じ快適さで、いや、日本では日野や三菱製のバスだから、日本で長距離バスに乗るよりも豪華な感じがした。バスの中では、レジデントと隣どうしとなり、後述するがいろいろな話をした。ベンツのバスだからと言って移動時間が短くなるわけではなく、きっちり10時間後の朝の4時、ソロアコの、日本でいうところの民宿に当たるであろう宿へ到着した。出発してからの慣れない環境、通じない言葉、長時間の移動に疲れていたため、教授と一つのベッドで寝ることも気にならずにぐっすり朝まで眠る・・前に、われわれを歓迎してくれたのは大きなゴキブリであった。食事中の方もいらっしゃると思われるため、写真は載せないが、久しぶりに大きなゴキブリと格闘した後に、眠りについた。 。

 

 


翌日は6時に起きてIlagaligo病院へ向かい、4月28日からの今回の共同手術をうける患者さんの診察を行った。手術予定の患者さんは全部で19人、われわれ日本人チームは3人の手術を担当することになった。日本から来るということで、みんなの期待がそうさせるのか、中村教授が担当する手術は、難症例ばかりであった。手術ができる口腔外科医の数の問題や地理的な理由、金銭的な理由もあるのだろう、術前にきちんとした管理がなされていない症例が多く、また、どこで、誰がこんな手術をしたんだろうというような日本ではいたこともない患者さんが多かったのが印象に残った。地理的・金銭的な理由をすぐに解消できないが、自分が来たことで少しでもインドネシアの口腔外科の技術向上につながればと、中村教授も自分の手術以外であっても指導されていた。また、インドネシアのDrも少しでも何か吸収しよう気概にあふれていた。手術がすべて終わって、病室に診察にいくと患者の家族は大変喜んでくれた.その後は、Ilagaligo病院の病院長がスタッフの歓迎セレモニーと昼食会を開いてくださった。

 
           

 その日の夜に再び長距離バスに乗り、4月30日早朝にマカッサルへ戻ってきた。ここでの昨日までの手術とは別のもう一つの大きなイベントが、マカッサル・ハサヌディン大学歯学部における中村教授講演なのである。他の海外活動記でも書かれているが、中村教授は1995年から1997年までハラパンキタ病院に勤務していたのでインドネシア語での日常会話は朝飯前であるが、講演となると念入りな準備が必要なようで、教授も「わかってくれるかなあ」と不安なようだ。初めはインドネシア語で学生の心をつかみ、後半のアカデミックな内容は英語で話すことになった。まず、学部長を表敬訪問し、口唇口蓋裂児に対する治療体系についての講演が始まった。  さて、講義が始まった.自分はほぼインドネシア語は分からないが、学生の反応は良く、所々挟まれるジョークにもお世辞笑い・・ではなく大いに盛り上がっていた。講演終了後には、是非教授と写真を撮りたいと女子学生がいたので急遽、壇上にて写真撮影会が始まり、教授も下の写真のように御満悦の様子であった。 昼食後はオランダ植民地時代に建てられたフォートロッテルダムを見学し、インドネシアの歴史に触れることができた。夕食はハサヌディン大学歯学部の教官が蟹料理を御馳走してくださり、とても美味しかった。

 

美味しい蟹料理のあとはインドネシアの名産フルーツ、またの名をフルーツの王様であるドリアンを食す事になったのである。実際に触れるのは今回が初めてであるし、ものの本などでは強烈なにおいを発すると読んだこともある。以前のインドネシア学会でも、当科の石畑先生、下松先生も試したが、食べられなかったとのこと、さて実際はどうなのか恐いもの見たさ、臭いもの嗅ぎたさで露店へ連れてもらった。写真のように外側のトゲトゲの硬い皮をむいて中身を食べるのだが、多少の臭いはあるのは事実であるが、ほんのり甘くてなかなか美味い。インドネシアの先生方と競うようにして中村教授と一緒に4個ほど食べたが、彼らの受けも上々だった。実際この時が一番彼らと分かりあえたかもしれない。そう考えると食べ物の力は偉大である。

 


 翌日は、往路と同じでジャカルタからシンガポールを経て、5月2日に福岡へ戻ってきた。鹿児島中央駅には家内と子供、義母が迎えに来てくれ、やっと日本へ帰ってきたんだなと実感が湧いた。 日本を出て異国で過ごした10日間では、自分にとってまさに「目から鱗」が何枚も落ちた日々であった。まだまだ見たもの、感じたものを書き表せていないが、中でも最も自分が考えさせられたのは、マカッサルからソロアコへ向かう10時間のバス移動であった。隣に座ったレジデントと拙い英語、インドネシア語、日本語を織り交ぜ、身振り手振りで話をしたが、彼らの情熱は相当なものであるということだ。インドネシアの口腔外科医は一般的に歯学部卒業後、専門コースに4年在籍し経験を積み、日本でいうところの口腔外科専門医の扱いとなる。そしてその中でほんの一握りが、そのあとに学位を取得し歯学博士(Ph.D)となれるのである。中でも驚いたのが、専門コースの在籍している4年間は無給で勉強しなければならないというのだ。日本では奨学金制度があるし(まあ、借金だが)、当科では歯科医院へ勤務に出たり、専門学校の講義を行ったりとなんとか糊口を凌ぐことができる。自分は童顔のため、インドネシアの診療スタッフからは、「おまえは学生か」と問われることもあったが、Ph.Dでassistant professor(日本の役職名:助教)だと伝えると、下にも置かない扱いに変わったものである。外来小手術ならともかく、全身麻酔での手術では完遂できる症例が少ない自分であってもインドネシアの診療スタッフから見れば、Ph.Dであると言うだけで過剰ともいえる丁寧さで接してくれることに、恐縮するとともに、慙愧の念に耐えない気持ちになったことが一度ならずあった。 今回、自分の仕事、責任というものをもう一度見つめなおす機会を与えてくれた中村教授とインドネシアのすべての先生方に感謝したいと強く思う。   

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