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 バタム島の闘い  

- 第11回インドネシア口腔顎顔面外科学会に参加して -  岐部 俊郎


4月の上旬のある日曜日の朝7時、僕は携帯電話の着信音で目が覚めた。この夏の超エキサイティングな経験は、この一本の電話から始まった。

 普段なら放置だが、その電話にはでないといけない気がして、僕は飛び起きた。「岐部〜、9月にインドネシアで学会があるけど、プレゼンテーションやってみる?」
 『むむっ!!この聞きなれたイントネーションは…中村教授からの電話だ!しかも、なんでこんな朝早くに!?』寝ぼけていた頭がクリアになり、会話の状況を把握した。そういえば教授に、僕は海外へ行ったことがないこと、海外の学会や医療ボランティアに参加してみたいことを話したことがあった。でも…いきなり海外の学会で発表って…。『僕は英語での会話すら、今までまともにしたことないんすよ!!いきなり英語でプレゼンテーションってハードル高くないっすか?普通はちょっと海外の学会にほかの先生の発表について行くとか、ポスター発表とか、そういう優しいステップはないんですかぁぁ。。。』心の声はそう叫んでいたけど、そういう弱気な返事は受け付けられない気がして、「やります!」って即答した。
 これまでも中村教授の提案やオファーに乗っかると、良い感じの結果が多い気がする。今回も何かピーンとくる感じがした。

 その日から、車の中では英会話のCDを聞くのが日課になり、一緒にインドネシアへ行くことになった松永先生の指導を受けながら少しずつ準備を始めた。言われるまでパスポートが必要なこともよく知らなかった。たまたまパスポートの話題になったからよかったものの、運が悪ければ出発直前まで知らなかったわけで…。今思えば、危なかった。

第1章   新幹線で出発

インドネシアへは、福岡―ソウル経由で向かうというスケジュールだったので、まず、新幹線で博多まで行った。出発前夜は、まるで遠足の前の日の小学生みたいに興奮して全然寝れなかった。新幹線に乗り遅れるのはマズいので、8時発の新幹線にもかかわらず、6時半に鹿児島中央駅に着いてしまった。
 僕は、初めての海外だったので、中村教授と松永先生を見失わないようにピッタリと密着マークしようと思った。僕は学生時代サッカー部に在席していた。『サッカーではマークは苦手だが、海外でこの二人のマークを外すわけにはいかない。視界から絶対外さないぞぉ』。そうこうしているうちに、7時15分頃松永先生が駅に到着。そして、中村教授は貫録の新幹線発車10分前に到着。皆で記念撮影をして福岡国際空港に向けて出発した。


出発前、鹿児島中央駅で記念撮影, 松永先生 (左)、僕(中央)、中村教授(右)

遠足気分で新幹線に乗車する僕

新幹線の中では、早速、英語での質疑応答の練習が始まった。僕は英語で外国人と会話したことすらなかったので、英語で学会発表することはすごいチャレンジだった。そのうえ僕の発表はショートレクチャー(講義)、しかも15分間とのことで失敗は許されない。新幹線の中では英語だけで会話するというルールで過ごした。『あれれ?英語は理解できる…毎日英会話CDを聞いている効果があったみたい…でも、英語で表現のはやっぱり難しい…。こんな状態で大丈夫かな?』と心配なまま日本を出発した。

第2章   インドネシア到着

ソウルの仁川国際空港で気合い入れの「蔘鷄湯(サムゲタン)」を食べた後にジャカルタに向けて出発、飛行機は合計9時間くらい乗ったのだろうか。世界地図を見ても日本からだいぶ離れているのがわかる。飛行機がジャカルタについた時は、インドネシアに来たというよりも、体を動かせるのが嬉しかった。
 飛行機から降りると、日本だと感じたことのない香りがする、空気が違う。田舎の婆さまの家というか、お寺の中というか、そんな匂いがする。しかも、ポーターとか、車の誘導者とか、両替所の人は商売根性たくましく、群がるように集まってくる。『凄い!これがジャカルタかぁ!』と感動した。
 ビザを購入して、無事入国。空港の外に出るとハラパンキタ病院のシャフルディン先生が迎えに来てくれていた。この先生は、見たことがあった。確か、僕が学生時代に一度鹿児島大学で講義してくれた先生だ。教授は旧友と話すように楽しそうだ。
 空港の駐車場で驚いたのは、ここは日本と間違うくらい、日本車ばっかりだった。トヨタ、ホンダ、ダイハツ、すずき、日産。むしろ、日本よりもインドネシアのほうが日本車の比率は高そうだ。バイクも、ホンダ、カワサキ…日本車ばっかりで、日本の企業も頑張っている。話を聞くと、日本の製品は壊れないし、性能がとてもいいということだ。日本の事が褒められると、自分のことのようで少し嬉しかった。
 ジャカルタの高速道路は広くて、直線で,北海道の道路みたいだ。車窓から見える景色は、想像だにしなかった大都会だ。高層ビルが建ち並んでいる。ホテルに着くとそこは結構立派なホテルで、僕は松永先生との二人部屋だった。部屋につくと…眠くて、眠くて…、慣れない長時間飛行機で疲れてすぐに寝てしまった。


ジャカルタ国際空港に無事到着

高層ビルのそびえるジャカルタ市街

第3章  ハラパンキタ病院訪問

2日目の朝、ハラパンキタ小児女性病院を訪問した。ちなみに、ハラパンキタ病院は、中村教授が若いころに2年間赴任していた病院だ。失礼ながら、インドネシアの病院は雑然としていて、そんなに大きくないと想像していたので、実物を見た時は、その整然として大きな建物に驚いてしまった。ただ、病院前の道路は車とバイクであふれかえっていて、インドネシアらしさを100%実感した。バスもドアが開いたままで走っていて、バスに乗りたい人は走行中のその開いたままのドアからバスに飛び乗らなきゃいけない…バスに乗るのも命がけだ…。
 病院の中に入ると、中村教授の周りに人が集まってきた。僕にはインドネシア語はわからなかったけれど、まるで昔の友達と話しているみたいに温かい感じがする。その中には、中村教授と昔一緒に働いていたスタッフだけではなく、患者さんやその家族もみんな、僕らを歓迎しているようだ。病院の中なのに、スタッフや患者さんとその家族の方たちと写真を撮ったりで大騒ぎになった。この日の午前中は、病院で8組の患者さんの診察をした。その様子を見ていると、患者さんや家族がみんな明るい顔だった。また、病院スタッフと患者さん家族は、一つのファミリーみたいであることが印象的であった。
 中村教授は30歳代にこの病院に滞在して治療を行ってきて、そして帰国した後も、インドネシアにおける口唇口蓋裂の治療システムの確立のために尽力してきたということを聞いていた。「インドネシアの口唇口蓋裂の患者さんが、本当に満足な治療を受けられるためには、インドネシアの先生達自身が主体となって治療を継続できるようなシステムの確立が必要だ。現在、この病院では現地の人たちだけで治療を行える体制が整っているけれど、これは最初からあったものではなくて、多くの人が努力した結果なんだよ。」中村教授の言葉を思い出しながら、今、僕の目の前の光景は、ここにたどり着くまでの歴史と、今と昔をつなぐ鍵ともいえる「人と人との繋がり」があったからだと、深く感じた。普段から、中村教授から言われていることの一つに「自分の勉強、経験、研究で得た知識は、ほかの人に伝えてこそ価値がある。自分だけのものにしてはいけない」がある。僕は、この言葉の意味は理解していたつもりだったけれども、この時、この言葉の意味を本当に理解した気がした。僕らの特殊な技術や知識は、周りの人々に伝えてこそ本当の価値がある。それがインドネシアの病院の自立に繋がっていったのだと感じた。
 病院を出るときに、僕は副病院長の女性の先生からこっそりと「あなたは中村教授から教わっているの?あなたは必ず優秀な先生になるわ。」(僕:Thank you。 I will study hard。)「中村教授はあなたをこの病院に連れてきた。あなたが将来ここで働くために、彼はあなたをここに連れてきたと思う。必ず戻ってきてね。」(僕:OK, I will be back here。 僕は必ず戻ってきますよって伝えたかった。たぶんそう理解してもらえたはず…)。僕も何らかの形でインドネシアに貢献したいと思うようになった。自分のステップアップのための経験とかのためじゃなく、「本当にこの人たちのために自分ができることはなんなのだろうか?」と考えるようになった。


ハラパンキタ小児女性病院

副病院長(中央)とシャフルディン先生(左)

中村教授が昔治療した患者さん家族と

親切で陽気な口唇口蓋裂センターのスタッフと

第4章  バタム島の闘い

3日目、目的の第11回インドネシア口腔顎顔面外科学会に向けて出発した。学会が催されたのはスマトラ島の少し北で、シンガポールとの国境近くにあるバタム島という小さな離島であった。しかし、学会会場のホテルは…映画「007」ばりのリゾートホテルだった。フロントロビーにはシャンデリアがあって、でっかい水槽があって、バーがあって感激。さらに、大きなスクリーンには、何故かその日はAll Japan U-22のサッカーの試合が放映されていた。皆も若いのに海外で闘っている。僕はホテルのロビーに飾られた日本の国旗をみると急にテンションが上がって、『よし、僕も闘ってやる。負けられない!』といった気分になった。
 その夜は、風呂に入ってから、中村教授の部屋で松永先生と学会予行をすることになった。結局僕は、いろいろな手直しをしながら、4回くらい予行をした。さらに、自分の部屋に戻ってから、手直しを続けて、すべて終わったのがam 3:30だった。『やばい、これは早く寝ないと』と思い、ベッドに入って1時間くらい経ったくらいだったろうか…、「アッラーハッ…!”#$%&’#@\&*+`…。」なんか窓からお経みたいなのが聞こえてくる…。『何だぁ!これがうわさに聞く「コーラン」か!うるさくて、眠れん…』。結局、僕は、あまり寝られず、本番を迎えるはめとなった。

 4日目、学会本番の会場は結構広く、メイン会場は400人位入りそうな広い部屋だった。松永先生と僕の講演する第二会場も150~200人分くらいの椅子が用意されていた。参加者は400~500人くらいって聞いていたけれど、最初はここで自分が講演することにかなりビビッていた。少なくとも、自分よりも経験のある先生がいっぱいいる中で喋らなきゃいけないということと、言葉が果たして通じるのかということに、不安だらけだった。



ロビーに飾られた日本の国旗をみて闘争心を燃やした 学会のメイン会場の大きさにはちょっとビビった

学会は、まず、開会のセレモニーで、綺麗な民族衣装を着た女性達の踊りから始まった。インドネシアの口唇口蓋裂治医療の母と呼ばれる、「テット先生」にも紹介され、何となく温かい雰囲気となった。間もなくして、中村教授の講演が始まった。インドネシアで15年前に治療を行った患者さんを長期観察した結果を織り交ぜての講演だった。何と講演の出だしは、教授得意のインドネシア語の発表だ。スライドの中で昔のインドネシアの写真や教授の若い頃の写真などが出てくると、インドネシアの先生が非常に楽しそうに笑いながら講演を聞いている。それを見て、自然と不安な気持ちはあまり感じなくなっていた。むしろ、自分の講演が始まるまでは、早く講演者の席に立って自分も喋りたいっていう、ポジティブな気分になっていた。しばらくして、隣の会場で松永先生の講演も始まった。海外公演の経験は数度あるとのことで、さすがに無事に進んでいるようだ。  



開会セレモニーでの綺麗な民族衣装での踊り インドネシアの口唇口蓋裂医療の母「テット先生」と

そして、自分の番が近くなった。僕は、エナメル上皮腫という、良性腫瘍だけれども癌のように治療が困難な歯原性腫瘍(歯を作る細胞から発生した腫瘍)の発育メカニズムに関する基礎的研究を医学部の医化学講座と共同で行っており、今回はその成果について発表した。自分の講演までにスライドの係りの人とかとも仲良くなっておこうと周りの人に話しかけたら、突然60歳くらいの女性が声をかけてきた。英語が速すぎて、聞き取れない。だんだん不安が蘇ってきた。
 さて、本番だ。英語での講演は緊張するかと思ったら、全然緊張しなかった。むしろ、心地よい緊張の中で喋ることができた。スライドもばっちり??ちょっと僕の手元のパソコン操作とずれるけれど、でも大丈夫!そんな感じで、貴重な15分間が終わった。
 次に、ステージの前に演者が並んで質疑応答の時間がやってきた。『うおぉっ!さっきのあの早口英語の女性が手を挙げている。しかも、「Dr. Kibe(キーベ)」と呼んでいる』。質問は4つも準備されていた。なのに英語が速くて聞き取れない。僕を見かねた中村教授が、受け答えをし始めようとした。なのに、ゆっくりとした口調でもう一度僕に女性は質問を繰り返してきた。また、「Dr. Kibe(キーベ)」と僕を呼んでいる。
 『よぉし!』僕の闘う心にスイッチが入った。『ここまで来て、何も答えられないのは嫌だ。何とかして、答えてやろう』と思い、僕のスライドとつたない英語で、受け答えを頑張った。それでも、まだ質問してくる。『分かってくれよぉ』と言う思いでがむしゃらに喋った。。。。。気が付いたら日本語で喋っていた。
 そしたら、会場から突然、拍手と「OK, OK!Good job!!」って声が聞こえてきて、僕の質疑応答は終わった。僕の発表を聞いてくれていた先生たちは、僕が大学院生で、英語の講演も初めだということを感じてくれた人がいたのだろう。会場の人たちは僕の味方になってくれたようだ。こうして僕の、講演は無事に?終わった。
 講演の後、認定書の授与式があった。『あれれ??』さっき僕に質問してきた人が、僕に認定書を渡してくれるではないか。後で、知ったことだけれど、僕に質問してきたこの女性は基礎の教授で、学会の重鎮だったそうだ。僕が基礎的な講演をするから、質問を考えてきてくれていたようだ。
 もし次のインドネシアでの講演の機会があるならば、次こそは、英語でちゃんとディスカッションができるようになって、もう一度ここに立ちたい。僕は強くそう思った。



中村教授(左)と松永先生(右)の講演風景


必死に質問に答える僕、気づいたら日本語だった 感謝状をくれた質問者の先生(左)や同じセッションで発表した先生と

さらに、今回の海外での学会で、僕はとても重要な経験をすることになった。それは、あるインドネシアの先生の顎骨の再建(顎を切り取った後に他の骨や金属で顎の骨を作ること)の講演で、顎に今までに見たこともないような大きな腫瘍のある患者さんのスライドをみて驚いた。中村教授に「凄いですねぇ、あれは何ですか?」と尋ねると、教授は、「あれが、岐部君の研究しているエナメル上皮腫だよ。世界ではまだ治療を受けられずに腫瘍が頭くらい大きくなる患者さんが沢山いるんだよ。日本では,もうあまり大きな腫瘍は見られなくなったけど、君の研究成果が役に立てばよいね」と言われ、二度驚いた。今、日本では癌の研究をする人は多くなったが、一方で、口腔に特化している歯原性腫瘍を研究する人は少ない。僕は正直、自分の研究していることがどれほど人類に有用なのか自信を持てなくて、自分の中で価値をそこまで見いだせていなかった。でも、世界ではエナメル上皮腫で苦しむ人が多くいるという現実を目のあたりにし、また、同じ疾患の研究をする若い仲間が沢山いて、次々に話かけられて,『僕の知識を必要としている人がいるんだ』ということを実感して、本当に嬉しかった。


エナメル上皮腫で顎が膨れた患者さん

インドネシア大学のエナメル上皮腫研究仲間と

第5章  シンガポール経由

海外最終日、今日は学会会場のバタム島からシンガポールへ船で渡り、シンガポールの市街を少しブラブラして、日本へ帰ることになった。
 「シンガポールって言ったら、マーライオン見たいやろ?」と、中村教授の号令で、シンガポールの地下鉄に乗り、マーライオンを探した。途中、飲食店で「マーライオンはすぐそこだよ。」と教えられて、歩くこと...歩くこと...2時間。マーライオン周辺の道路は封鎖され、進入禁止に。『シンガポールに来てマーライオンが見られないなんてありえないはず...ん?待てよ…、もしかしてF1か!!!!そう、今日はF1のシンガポールグランプリのナイトレースのプラクティスの日だった!』。地元警察に、中村教授が「せめて小さなマーライオンは見られないか?」と食い下がるも、「小さなマーライオンは、大きなマーライオンの隣にあるよ。」と言われて...ガックリ!結局、観光パンフレットのマーライオンを写真に撮って諦めることになった。でも、僕らは運がいいのか悪いのか。僕はF1好きだから、本物の走行音が聞けると思うと嬉しかった。

 僕らは6時くらいから、運河沿いの日本料理店の屋外テーブルについて、ビールを飲んでいた。すると…、ものすごい排気音と走行音が聞こえてきた! 『おおお!F1マシンの音だ!!』。さっきまで、マーライオンが見られずに、今いちテンションが上がり切っていなかった皆のテンションが一気にMAXへ。 『凄い!凄すぎる!!』街中にF1のサウンドが響き渡っている。実は前日の学会の晩餐会でも、僕は400人の参加者の中から抽選で1等を当ててしまい、日本製のデジカメをもらった。今回の旅行は、本当にいいことばっかりだ。


  会えなかったマーライオン  

  F1市街サーキットの入場口の看板 

今回の学会参加で、僕は、初めての海外だったからということもあるだろうが、自分の中で、大きな階段を一つ上ったような感覚がした。4月に中村教授から電話がかかってからは、凄くストレスの多い毎日ではあったけれど、「やります」って返事をして良かったと心から思う。一方で、英語が上手くならないと、世界中の同じ研究をする多くの仲間に自分の知り得たことを十分に伝えられないことを実感した。今回のように、海外の研究仲間と直接会話して伝え合うことによって得られる感動や周囲の反応、そして自分との連帯感は言葉では言い表せないくらいに大きな経験となった。

 僕は、F1のうるさい音の中、「僕に声を掛けていただいて有り難うございました。」と中村教授に言った。
 「岐部君なら何とかなると思ってたよ。」と教授は答えてくれた。
 「でも、実は、いきなり海外での講演は難しいかなぁ。。。大丈夫かなぁ。。。どう思う松チャン?って教授に相談されていたんだよ」と松永先生。
 ははは、少しはやっぱり気にしてくれていたんだ。僕は大きな満足感と達成感を感じながら、日本への帰路に就いた。

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